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December 15, 2004

あれから302年「嗚呼忠臣蔵」

あの忌まわしき殺戮事件“討ち入り”から昨日は302年目と云う事になっている(正確には江戸時代は現代と暦が違うので少しばかりズレているが)。

 私は育った頃にはもうそんな事はなかったが、あれ以来近代に至るまで極悪人の濡れ衣を着せられてしまった吉良の地元では、全く不当な差別や蔑みを受けてきた、らしい。吉良家に関わりのあった人たちの墓石は削られて無縁仏の如く扱われてきたし、永きに渡りその眷属は息を潜めて生きてきた。

 最近、と云っても此処3〜40年位の事だと思うが、「《吉良上野介=極悪人》というのは間違いではなかったか?」「赤穂の浪人達は、本当は敵討ちなんかしたくなかったのではないか?」等々色々な面から書かれた本も数多く出てきて、吉良の名誉も少しずつではあるが回復しつつある様に思う。勿論私の故郷・吉良では昔から《吉良上野介=名君》で通っている。

 彼は、氾濫の多かった川に“黄金堤”という堤防を築き領民を守ったし、富吉新田という塩田を作り産業を興した。そんな事から「この塩田では良い塩が取れなかった為、良い塩で有名であった赤穂に良い塩の作り方を教えろと迫ったが、それも叶わず浅野に対する恨みの原因の一つになった」と聞いた事があるが、邪推の域を出ない戯言であろう、と思う。それなりの塩が採れなければ昭和期までその塩田が続く筈はない。私が学生の頃まで富吉新田には日本専売公社の塩田があった事からも明かであろう。
 因みに富吉新田の『富』は上野介の妻・富子の名からその一字を頂いたものだ。

 然し何故あんな虐殺行為が、忠義の誉れとして後世に語り継がれてしまったのだろうか?城中で、刀を抜けば切腹・お家断絶と決まっていた所で刃傷におよんだ短慮でヒステリーな行動に対して如何様に仇の討ち様があるというのだろうか?そこまでの行動に及ばざるを得ない程悔しく耐え難い屈辱を与えられたとしても、一国を預かる大名のやる事ではない。全く短慮でヒステリーだとしか言いようがない。どう考えたってこんな殿様を持った事が不幸であったと嘆く許りであって、仇討ちをしよう等と考えるのは全くの筋違いであり、逆恨みというものだ。全く迷惑な暴徒としか言いようがない。困った輩とそれを焚き付ける馬鹿者は何時の時代にも居るものだ。

 処で数多くの突っ込み所満載ではあるがと云うか、それ故にと云うか『忠臣蔵』は仲々面白いドラマだとは思う。堀部安兵衛、天野屋利兵衛、お軽・勘平など実在・創作共にキャラクター的にも独立して芝居が作れる者が多い所も魅力的だ。然し今も昔も芝居の中の話を真に受けて在らぬ濡れ衣を掛けるというのは如何な物か。
 『忠臣蔵』の初演では勿論討ち入りの場面はなかった。時代は室町だし、吉良上野介も浅野内匠頭も大石内蔵助も登場しない。高師直、塩冶判官、大星由良之助だった。今でも歌舞伎や文楽では此方の役名で上演されていると思う。討ち入りの場面が出来たのは、明治以後の筈で、史実に従った芝居の上演が禁じられた江戸の時代が終わり、また西洋からリアリズムが入ってきたり、等の理由が考えられる。

 高師直は足利尊氏の執事で有り、将軍の直轄軍団長である実在の人物です。
 「天降るあら人神のしるしあれば世に高き名は顕れにけり」という歌『風雅和歌集』に残ってるそうです。

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